一連の熊本地震では、まず2016年4月14日午後9時26分のマグニチュード(M)6.5の地震が発生し、益城町で震度7を記録しました。震度7は観測史上4回目の出来事でした。その後、 15日未明のM6.4の地震など、活発な余震活動が続く中、16日午前1時25分にM7.3の「本震」が発生しました。M6.5の約20倍のエネルギーです。これによって、益城町は再度震度7の激震に見舞われました。その後、阿蘇市や別府市などでもM5クラスの誘発地震が多発しました。今回の熊本地震は、このような地震の連鎖性で特徴付けられます。最初のM6.5地震が「前震」、28時間後のM7.3が「本震」とされていますが、そのような定義や地震発生の流れに必然性はありません。余震発生域に最初の本震よりも大きな断層が存在し、その動きが誘発されると、結果的に余震(後から起きる地震)のほうが大きくなります。結果として、後付けで最初のM6.5を前震とラベル付けしているに過ぎません。誤解を避けるため、M6.5を前本震、M7.3を後本震と呼ぶ研究者もいます。

 

2016年4月16日に発生したM7.3熊本地震では、その地震を起こした断層本体が地表に現れました。北北東〜南南西に延びる長さ約30kmの地表地震断層です(図1)。今回の断層の動きは、断層を挟んで向こう側の岩盤が右にずれるという「右横ずれ断層」で、最大のずれは2mでした(図2)。阿蘇カルデラ内にまで断層が出現することは予想外でしたが、すでに知られていた布田川断層・日奈久断層という活断層が動いたことがわかりました。断層がずれ動き始めたのは、熊本市中心部から南東5km。ちょうど布田川断層と日奈久断層の接合部付近です。そこから、十数秒かけて阿蘇まで断層のズレが北東に伝播していきました。この突然の大地の動きで、布田川断層沿いの益城町・西原村では震度7の猛烈な揺れに見舞われました。一方、東北地方太平洋沖地震では、震度7は宮城県栗原市の1観測点のみでした。エネルギーにして、熊本地震は東北沖地震の1/1000なのですが、震度7の範囲はむしろ熊本地震の方が広かったのです。家屋を倒壊させる1秒程度の短い周期の揺れが、直下から減衰することなく住宅地を直撃しました。活断層による内陸直下地震の怖さをあらためて実感させられるものでした。

 

このように、内陸直下地震の原因は活断層です。活断層とは、過去数万年~数十万年間にわたって熊本地震のような直下地震を何度も繰り返した結果、崖や川・尾根のずれとして地形に表れた断層です。将来の大地震の震源地です。活断層は日本列島いたるところに分布し、その数は2千を上回ると考えられています。特に、熊本地震が発生した九州中央部は、別府から阿蘇を経て島原に抜ける別府—島原地溝帯という大地の裂け目が分布します。多数の火山とともに活断層が密集する地域です。この地溝帯には南北に引っ張る力が働いていて、九州北部と九州南部は年間約3 cmのスピードで離れています。今回の熊本地震は,この地溝帯の南縁で発生しました。

 

残念ながら大地震は予知できません。断層毎に確率値が示されていますが、まだ信頼できるほどではありません。ただし、いつ起こるかはわからないけれど、活断層沿いでは今後確実に震度6強〜7の大きな揺れに見舞われます。内陸地震の特徴は突然の真下からの強震です。緊急地震速報も役に立ちませんし、身構える時間はありません。命を守るために建物の耐震補強が急務です。

 

阪神淡路大震災の経験から、日本では災害時医療体制の柱の一つとして災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team: DMAT)を整備してきました。DMATは1チームが医師1名、看護師2名、業務調整員1〜2名で構成され、大規模災害などが発生した際、迅速に現場に展開できる機動性をもった、専門的な訓練を受けた医療チームです。
2016年4月14、16日に熊本地方を襲った震度7の地震を受け、当院を含む東北ブロックDMATには4月16日午後4時に日本DMAT第2次隊としての派遣要請が発出されました。同日午後7時に東北ブロックDMAT8チームは航空自衛隊松島基地(宮城県)を出発、翌4月17日午前2時50分に参集拠点・活動拠点本部となった大分県竹田市の竹田市医師会病院に到着しました。東北ブロックDMATに課された任務は「熊本県の阿蘇地域を大分県側からサポートする」というものでした(図1)。
4月17日朝、熊本県南阿蘇村久木野庁舎でのミーティング後、分担エリアの避難所を回りました。しかし、その時点では全避難所の場所、避難者数など、基本的な避難所情報がまだまだ不足している状態でした。同日夕刻のミーティングでは、翌日も引き続き避難所情報収集を行うことが確認され、また、「ある特別養護老人ホームに利用者があふれスタッフが疲弊している」という情報が提供されました。
4月18日、当院DMATには南阿蘇村河陽の特別養護老人ホーム「陽ノ丘荘」での情報収集、状況に応じての避難搬送ミッションが割り振られました。「陽ノ丘荘」は崩落した阿蘇大橋から約2kmの地点にあり、周囲は土砂崩れが頻発していました。通常定員100名の施設に近隣からの避難も含め140名の高齢者が居住している状況にもかからず、通常定員の1/3~1/2のスタッフで介護を行っていました。ライフラインはガス(プロパン)を除き途絶、発熱者あり、特別食・薬剤も間もなく底をつく、スタッフ数が少ないため疲労の色が著しいなど、東日本大震災を経験した私達には、「陽ノ丘荘」が数日内に危機的状況に陥るように強く思われました。施設幹部の方々と相談し、病状の重篤な入居者を医療機関へ搬送することにしました。100歳を越す超高齢者、認知症・寝たきり入居者が搬送候補者にあがり、うち家族の同意の得られた15名を約50 km離れた大分県竹田市医師会病院へ医療搬送しました(図2)。
4月19日は朝から南阿蘇村白水庁舎で行われた災害医療コーディネート会議に出席し、昨日の陽ノ丘荘ミッションについて報告、地元の保健師さんに福祉介護施設の情報収集を依頼しました。次隊DMATへの引き継ぎ後、昼前にレンタカーで南阿蘇村を後にし、仙台への帰途につきました。

 

はじめに

熊本地震で被災した国特別史跡熊本城の修復には、数十年かかると取り沙汰されている。私たちはこの時間をどう捉えたらいいのだろう。熊本城が“現役”だった江戸時代の震災と修復の歴史から、私たちの熊本城との向き合い方を考えてみよう。

 

1.寛永2年(1625)の熊本大地震

細川家(永青文庫)「萬覚書」に見られる6月17日熊本大地震と熊本城
①地震発生は6月17日夜 ②熊本城天守、「城中の家」がことごとく崩壊
③城中にて50人が即死 ④「煙硝倉」=火薬庫(煙硝8万斤=48t備蓄)が出火爆発、5町8町四方(周囲500~800m)の家がことごとく吹き飛び、周囲6里5里(3~4㎞)に石垣の石材や屋根瓦が飛んだ
⑤重臣の家も被災し、修理を進めている。「城」の修復については「江戸」(幕府)に許可申請している
⇒加藤清正が熊本城を「完成」させた慶長12年(1607)からたった18年後、熊本城は大地震によって壊滅的被害を受けていた!

 

2.寛永9年(1632)12月、細川忠利熊本入城時の状況

*天守閣は再建されていたが、建物の屋根は雨漏りし、塀はボロボロだった!
*寛永10年(1633)5月にはまた地震が発生、忠利ら本丸には居られず
*同年8月5日 忠利、幕府に提出する熊本城の工事申請目録を作成(永青文庫「御自分御普請」)
 ①石垣工事申請…小天守の下北の方、石垣252坪(長さ36間 高さ7間)ほか、全25ヶ所 合1503坪
 ②塀普請申請…本丸北出口上りの塀22間ほか、全4ヶ所 合113間
⇒寛永2年地震の被害を修復しきれぬまま7年後に加藤家は改易となり、細川家は相次ぐ地震、水害、落雷の中、幕府の許可を得ながら、石垣や塀などの大規模工事を進めねばならなかった

 

3.熊本城の復旧と熊本藩の政治・行政

*大名仲間から城普請について相談された細川忠利いわく
…「石垣の築き直しは無用! 城が見苦しいのはどこでも同じ!」
*寛永15年9月、肥後国内での牛の大量死に直面した細川忠利の大名仲間への手紙
…「熊本城の堀・石垣・櫓など幕府の許可を得て、すみずみまで復旧工事を命じていたが、こんなに牛が死んでいるのでは、百姓たちが工事にあたるのは無理だろう。まずは城の工事を止めて、百姓の麦の作付けを侍たちに援助させようと思う。政治とはどうにもうまくいかないものだ」
⇒城は壊れているのが当たり前←その修復工事はあくまで藩にとっての政策課題の一つに過ぎず、むしろ民政優先が幕政も含めた江戸時代の政治の理想
⇒倒壊・焼失した天守閣が再建されなかった城は意外に多い:江戸城、大坂城、金沢城、八代城etc.

 

おわりに

どこかが破損し修復工事が断続的に行われているのが城の本来の姿。これから始まり、様々な困難に直面するであろう修復工事の過程も、まさに熊本城の歴史の一部となりうる。そのためには、国特別史跡熊本城の文化財としての本質的価値を毀損するような拙速な工事は絶対に避けるべき。

東日本大震災から5年が経過しました。東北地方太平洋沖地震とそれに伴う巨大な津波が発生し沿岸部を中心に壊滅的な被害をもたらし、さらに原発事故が加わり人類がかつて経験したことの無い甚大な複合災害になりました。この地域は、世界でも有数の地震・津波の常襲地域であり、住民の防災意識や事前の備えなどがかなり充実していた地域でもあります。そのため、何が被害拡大を促し、どのような備えが有効であったのか?なかったのか?東日本大震災の被害実態や教訓整理を紹介したいと思います。
私たちの研究所では、現在、震災検証や災害科学の深化を進めており、災害対応の充実を図るべく実践的防災学の展開を行っております。東日本大震災の重要な教訓の1つに「私たちの従来の経験・知見は非常に断片的であり、将来も同じでありその幅があり不確実性が多い。これを踏まえて、将来に備え・意志決定・判断しなければならない」という点があります。
その教訓を活かした代表的な研究活動の1つが、当時の経験・教訓を後世に伝える「震災デジタルアーカイブ(みちのく震録伝)」であり, 私たちは伝承するには3つのステップがあると考えて研究を推進しております(図1)。まず科学的・技術的な実態・原因の解明です。繰り返さないためには、やはり原因とその仕組みを知ることが必要であり、そのことによって、次に備えるためのヒントが生まれることになります。次が、地域での減災です。完全に災害等を防いだり、100%低減することは困難ですので、命を守るという大前提の下に、何が多段階的にできるかを考えていく必要があります。最後は、このような知識やデータや知恵などを整理し発信し、要望に応じて提供することです。東日本大震災では多くが津波による犠牲者でした。同じ悲劇を繰り返さないためには、震災の恐ろしさを訴え続けるだけでなく、防災・減災への教訓、知識や共感を得られるように伝えていくことが望まれます。当時の経験を記録し、遺構を保存するとともに、写真や映像、記録誌なども利活用して、災害発生時にいかに生きる行動ができるのかのヒントを得ることが肝要であると考えます。現在、伝承モデルの検討も行っており(図2)、災害を体験し生き抜いた方の生の声は非常に説得力があることから「語り部」の仕組みづくりも重要であると思っております。

 

熊本地震はいろいろな点で私たちにとって驚きでした。熊本での自然災害といえば、水害や土砂災害が真っ先に頭に浮かびます。実際、平成24年7月11日から14日にかけて発生した九州北部豪雨災害では、熊本地域に多大な被害をもたらしています。その傷跡も癒えないうちに、熊本で震度7の巨大な地震が2回も発生したことは驚きです。多くの人々が地震は自分とは縁遠い問題だと考えていたことと思います。しかし、熊本での地震の危険性は以前より指摘されていました。布田川・日奈久断層の存在や、熊本で地震被害がこれまでも過去に発生していることは明らかにされており、行政も地震による被害想定を行っていました。このことは新聞等のマスメディアでも報道されています。それでも、家具固定や防災グッズ、地震保険への加入など地震への備えを怠ったことを後悔されている方々は多いです。

熊本でも地震が起こる危険性は知られていたのに、なぜ多くの世帯で地震への備えは十分に行われなかったのでしょうか?その理由の一つとして、人間の心には一定の傾向、心のクセと呼ぶべき認知バイアスがあることが挙げられます。日常生活ではそうした心のクセは上手く機能する、もしくは大きな問題にはならないことが多いです。しかし、災害時のような非日常においてはそうした心のクセが深刻な被害につながる可能性があります。例えば、少しの手間で大きな減災効果が得られる家具固定をしない原因として、現状を変化させることは心理的抵抗が大きいという現状維持バイアス、「熊本は地震が少ない」という自分の選択に都合のよい情報ばかり集めてしまう確証バイアス、「過去の地震では大丈夫だったから」と将来の地震を今までの地震から判断してしまうベテラン・バイアスなどが考えられます。

こうした認知バイアスは無意識のうちに作用します。しかし、自分にそうした心のクセがあることを理解しておくことで、その行動を修正することができます。スポーツの練習と一緒で、自分の悪いクセを知らないのでは上達しません。自分の悪いクセに気づき、それを修正しようという意思があれば、よりよい選択につながります。この講演では、防災・減災と関連する認知バイアスについて紹介していきます。